空を抱いた男

経済的成功と安定した家庭を手に入れたはずなのに、
家族関係や人生にどこか満たされない空虚感を抱えていた一人の男性。
過去の関係性と向き合い、本当の幸せと愛を取り戻していく癒しの物語。

プロローグ

夜、ベッドに入った。

妻と子どもは先に眠っている。

時計の秒針が静かに進む。

それだけが、少しだけ部屋に“現実感”を与えていた。

今日も、よく働いた。

午前は会食、午後はミーティング、夜はパートナー企業と会合。

どれも順調だった。

明日も、予定が詰まっている。

もう少しゆっくりしたいけど、

まあ、この年齢でこれだけ動けるなら悪くない。

こんなふうに眠りにつく夜は、

きっと“幸せな部類”に入るのだろう。

特に困っていることもないし、

誰かに責められているわけでもない。

ただ、ひとつだけ。

眠る直前、ふと毎晩のように感じることがある。

「……何か、まだ“終わってない”気がする」

けれどその“何か”が何なのかは、わからない。

たぶん、考えすぎだ。

考えるから、眠れなくなる。

だから今日もその感覚に、そっとフタをして目を閉じた。

静かで、何も問題のない夜だった。

――そのはずだった。

第1章 完璧な生活という名の、微かな空洞

エスプレッソマシンの蒸気が、小さく鳴った。

妻が好んで選んだ北欧のキッチンに、朝の光が柔らかく差し込んでいる。

テレビはついていない。

静かな音楽が流れているわけでもない。

けれど、この家には常に“整っている空気”があった。

6歳になる娘が「パパ、見て」と言いながら、朝食のパンにジャムを塗っていた。

その向かいで、美しい妻が笑っている。

眠そうなまま、カップを両手で包み込むように持って。

その様子を見ながら、彼はトーストをひと口、口に運んだ。

完璧だ――

まったくもって、何も問題はない。

子どもは健やかに育っている。

妻は優しく、過度に干渉してこない。

仕事も順調だし、資産も安定している。

「行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

娘はスマホに視線を向けたまま、うなずいたように見えた。

妻は微笑んでいたが、何かを“演じるような”やわらかさだった。

スーツを整えながら家を出る。

玄関を出ると、門の前にはすでにブラックのSUVが静かに待っていた。

運転手が軽く会釈しながらドアを開ける。

今日もまた、機械のように整った日々が始まる――はずだった。

車がゆっくり走り出す。

道路に揺れる街路樹の影を眺めながら、彼はふと思った。

「今日は、何曜日だっけ?」

ほんの一瞬のことだった。

だが、その感覚はなぜか、背筋をわずかに冷たくした。

(なぜ、こんなに予定が詰まっているのに、

 何曜日かが“遠く”感じたんだろう)

すぐにスマホで予定表を確認する。

昼は取引先とランチ、午後は3社のミーティング、夜は会食。

いつも通り。問題なし。

ただ、何かが…何かが、うまく“噛み合っていない”ような感覚があった。

彼は、そういう“気のせい”を何度も経験してきた。

そのたびに「考えすぎ」と片付けて、仕事に集中することで打ち消してきた。

成功するとは、そういう微細な違和感を押し流す力を持つことだ――とすら思っていた。

スマホの通知が震えた。

画面には、離婚した元妻の名前が表示されていた。

【なにか勘違いしてない?】

【この前の件、息子はあんたの“成功ストーリー”じゃないから】

深いため息が、思わず漏れる。

(またか……)

彼は返信をせず、画面を伏せた。

けれど、心の奥の何かが、かすかに動いた。

小さく、でも確かに――

「ほんとうは、自分でも気づいているんだろう?」と

問うように。

そして、見えない空洞が、

少しずつ、広がりはじめていた。

第2章 予告なき火種

スマホの通知が、また震えた。

車内は静かだった。

運転手は、こちらの様子に気づかないふりをしている。

画面には、元妻の名前。

開くと、冷えた言葉が連なっていた。

【結局あなたは“父親”じゃなくて、出資者でしかないのよ】

【息子が音楽をやめたいって言ってるの、知らないでしょ?】

喉の奥が、じんわりと乾く。

怒りではない。

それよりも、“面倒くささ”に近いものだった。

(また、始まった…)

彼はメッセージを閉じる。

返信はしない。

しばらくして、既読スルーに気づいた彼女からさらに数通の文が届く。

最後の一通には、「今の奥さんにこの録音、送ってもいい?」とあった。

こめかみに、鈍い痛みが走る。

10年前に離婚したはずの“関係”は、いまだに終わっていなかった。

「おまえが子どもを使って、支配しようとしてるんだろ」

以前そう言ってしまったことがある。

彼女は、その言葉だけを切り取って、何度も何度も責めてきた。

思い返せば、

あの結婚生活は「優秀な遺伝子を育てるプロジェクト」みたいだった。

息子は才能があった。

小学生の頃からコンクールに出て、何度も入賞してきた。

今も、彼女が用意したレッスンスケジュール通りに毎日バイオリンを弾いている。

でも――笑わなかった。

昔のある日、レッスン帰りに車の中で、息子がぽつりとつぶやいた。

「パパ、音楽って、楽しまなきゃいけないの?」

そのとき彼は、何も答えられなかった。

今になっても、その言葉が時々よみがえる。

そして、息子の“やめたい”という言葉を、

彼女が今、「あなたの責任だ」と詰め寄ってくる。

(なぜ、こんなことになったんだろう)

彼は、そう考えて――

すぐに考えるのをやめた。

仕事の電話が鳴る。

切り替えだ。

これが自分の“守り方”だった。

スマホを伏せたあと、

ふと助手席のガラス越しに目を向けた。

信号待ちの横断歩道に、子どもと手をつなぐ父親の姿が見えた。

子どもが笑っている。

父親も、なにか話して笑っている。

その光景が、少し遠すぎる風景に見えた。

「社長、そろそろ着きます」

運転手の声で、彼は現実に戻った。

胸の奥に残ったものは、

怒りでも、悲しみでもなく――

名前のない、わずかな“削がれ感”だった。

何かが、確かに失われていた。

でもそれが何なのか、今の彼にはまだ、わからなかった。

第3章 妻が出会った“目に見えない扉”

その日も彼は、夜遅く帰宅した。

照明の落ちたリビングに、ほのかなアロマの香りが漂っていた。

ソファに腰を下ろすと、妻がキッチンから顔を出した。

「おかえりなさい」

「ただいま。……もう寝てたかと思った」

妻は何か言いかけて、少しだけ言葉をためた。

けれどそれに気づいた彼は、タイを緩めながらテレビのリモコンに手を伸ばした。

少しの沈黙。

けれど、テレビの音が部屋を埋めてくれた。

その夜の会話は、それだけだった。

──翌朝。

彼がシャワーを浴びている間、妻はスマホでなにかを見ていた。

その画面には、どこか素朴な雰囲気のウェブページ。

「ご先祖さまを癒す“静かな儀式”」

そんな文字が、小さな手書き風のフォントで表示されていた。

最近、彼女はよく言っていた。

「眠っているときにね、夢におばあちゃんが出てくるの。何度も」

「どうしてだろう。今までそんなこと、なかったのに」

彼は「へぇ」とだけ答えた。

本当は、何も感じていなかった。

というより――わからなかった。

先週、彼女はひとりでその「ご先祖さまの癒しの会」に参加した。

場所は、静かな住宅街の一室だったという。

畳の上に数人の人が静かに座り、ろうそくの灯りの中で呼吸を整えるだけの会。

「ただそれだけなのにね、終わったあと、

 何かがふわってほどけた感じがして」

そう語る彼女の表情は、穏やかだった。

けれどその“ふわって”という言葉が、彼にはうまく理解できなかった。

「そういうのって、ただの気分の問題でしょ、

 目に見える結果がないなら、意味ないと思うけど」

彼はそう言って笑った。

冗談半分のつもりだった。

けれど妻は、その言葉に反応しなかった。

笑い返すことも、反論することもなかった。

ただ、小さくうなずいたあと、視線を娘に向けた。

娘がソファでブロックを組み立てていた。

口元が少しふくらんで、何かに集中している様子。

その光景を見ながら、彼女は小さくつぶやいた。

「きっとね、この子にも、つながってると思うの」

彼は何も言わなかった。

理解する気もなかった。

けれど、その日から、

彼女は月に一度、その小さな“儀式”に通い始めた。

何も変わっていないようで、

どこか、何かが――少しずつ、違ってきていた。

彼はまだ、それに気づいていなかった。

けれど、

目に見えない扉は、

この家の中でも、すでに――静かに開きはじめていた。

第4章 受け入れられなかった言葉

ある夜、彼はリビングでメールを整理していた。

今月もいくつか大きな契約が動く。

投資先からの報告書も確認しなければならない。

けれど、どれも一度読めば把握できる内容だった。

パソコンの画面を閉じる頃には、心に“どこか空いたままの感覚”が残っていた。

そのままリビングの照明を落としかけたとき、

妻が、珍しくこちらに話しかけてきた。

「少しだけ、話してもいい?」

彼は時計を見た。

23時45分。

「明日も朝早いんだけど」と思ったが、言葉にはしなかった。

「うん」とだけ答えた。

妻は、ソファの向かいに静かに座った。

少しの間、視線を合わせなかった。

やがて、切り出すように口を開いた。

「元奥さんとのことだけど……

 どうして、あそこまで関係が荒れてしまうんだろう?」

彼は少し眉を寄せた。

会話の入り方が、思っていたよりも踏み込んでいた。

「……さあ。向こうがああいう性格だからじゃないの?」

妻は少しだけ笑った。

けれど、その笑みにはいつもの“逃げ場”がなかった。

「ねえ……

 もしかしたらだけど、

 あなたのお父さんとの関係、少し似てない?」

彼は、一瞬、返事を飲み込んだ。

「何が言いたいの?」

妻はゆっくり言葉を選ぶようにして続けた。

「元奥さんの怒りって、

 本当は“あなたの、お父さんに対しての怒り”と重なってる気がして……」

彼は、笑った。

静かに、鼻で。

「……いや、ちょっと待って。

 そういうオカルトみたいな話、今ここでされても困るんだけど」

「父親との関係が、元妻との関係に関係ある? それ、何の理屈?」

妻はうつむいた。

でも、黙らなかった。

「わたしもね、以前は似たようなことがあったの。

 自分では“その人”に怒ってると思ってたけど、

 本当は……もっと昔の人――お父さんとの関係を通して見てたって気づいてから、

 その怒りが消えたの」

彼は黙った。

けれど、その沈黙は“納得の静けさ”ではなかった。

「……それ、おまえの思い込みでしょ。

 俺には関係ない話だと思うよ」

そう言って、立ち上がろうとしたとき、

妻が静かに言った。

「そうだね。

 でもね――

 その怒りが、あなたの本当の自由を邪魔してるように、見えるの」

彼は立ち上がった。

何も言わずに部屋を出た。

ドアが閉まる音が、

思ったよりも大きく響いた。

そしてその夜、

なぜか眠りが浅かった。

夢も、何も見なかった。

けれど、朝になっても疲れは残っていた。

ほんのひとことだった。

けれど、

“聞かなかったふり”をするには、

その言葉は、あまりにも深く沈んでいた。

第5章 ゆるされていなかったものたち

彼の父が倒れたのは、それから1年ほど経った頃だった。

会議の合間に電話を見て、

母からのメッセージに「急ぎ」の文字があることに気づいた。

実家に行くのは、何年ぶりだっただろう。

その玄関の匂いをかいだ瞬間、

小さく古びたソファや、壁の時計の音が、

なぜか体の奥のほうをじんわり締めつけた。

病室で、父は点滴を受けていた。

痩せてはいたが、意識はある。

だが、その目は、昔と変わらず厳しかった。

「仕事はどうだ?」

「うまくいってる」

それだけの会話だった。

それ以上、何も言葉は出なかった。

彼は、ただ座っていた。

ふと目を落とすと、父の手が毛布の上に出ていた。

しわだらけで、血管が浮いていた。

(昔、この手で、俺を叩いたことがあったな)

唐突に思い出した。

小学生の頃、家でふざけていたときだった。

「そんなことをして、恥ずかしくないのか」と言われ、

理由もわからずに強く頬を叩かれた。

怒鳴られたことより、

“自分の感情が、全否定された”ことのほうが怖かった。

そのときから、彼は何かを押し込めるようになった。

正しくあること。

強くあること。

完璧であること。

そうでなければ、愛されないと思っていた。

病室の静けさの中で、

その記憶が、彼の中にふわっと浮かび上がっていた。

(父が悪いわけじゃない。

でも、許せてなかったんだな、ずっと)

誰にも言えなかったその感覚が、

自分の中で、はじめて“認識された”。

そして、不思議なことに――

頭の中に、1年前の妻の言葉がよみがえった。

「もしかしたら…あなたのお父さんとの関係、少し似てない?」

「その怒りが、あなたの本当の自由を邪魔してるように、見えるの」

(あのとき、なんであんなに認めたくなかったのだろう)

否定するほど、見えなくなる。

笑い飛ばすほど、近づいてくる。

病院の帰り道、

彼はスマホを取り出し、妻にメッセージを送った。

【前に言ってた“儀式”ってやつ…

来月、俺も行ってみてもいいか】

数分後、短い返信が返ってきた。

【もちろん。いつでも】

そのあとに、小さな桜のスタンプが添えられていた。

車の窓に映る自分の顔が、少し柔らかくなっている気がした。

それを確認するように、彼は静かに目を閉じた。

まだ何も“ゆるして”いない。

けれど、

自分の中にゆるされていなかったものに、

初めて目を向ける準備ができた――

そんな夜だった。

第6章 そして「ありがとう」が届いた日

それからの彼は、月に一度、

あの“儀式”と呼ばれる小さな集いに通うようになった。

畳の上に座り、ろうそくに火を灯す。

よく分からないけど、どこか心に染み入るお祈り文を読み、

静けさの中に、

彼は初めて“耳を澄ます”という感覚を知った。

何を?

誰に?

それは、目に見える誰かではなかった。

フルートの美しい音楽が流れ、

彼の内側に、ずっと押し込められていた

「わかってほしかった声」

そして、

「怒りを抱えたまま残っていた誰かの感情」

がゆっくりと顔を出し、

そのすべてが、

少しずつ、やわらいでいった。

儀式に通いはじめて半年ほど経った頃、

彼はふと気づいた。

妻と娘と一緒に、よく笑うようになったこと。

そして、元妻とのやりとりが、

以前より“柔らかく”なっていることに。

相変わらず元妻のメールの内容は刺々しいこともある。

でも、それを読んでも、前のように反応しなくなっていた。

一度、彼女と話しているとき、

彼がふとこう言った。

「……ありがとう。あのとき、息子を育ててくれて」

言ったあと、沈黙が流れた。

彼女は何も返さなかった。

けれど、そのあとに続いた会話のトーンが、

どこか、ほんの少し変わっていた。

そしてある日、

喧嘩してもう何年も連絡を取っていなかった

弟から、突然メッセージが届いた。

【お兄さん、元気? 今さらだけど、話したいことがあるんだ】

手が、震えた。

どれだけこの一行を待っていたか、わからなかった。

あるいは、待っていたことすら、忘れていたのかもしれない。

彼はスマホを胸に当てた。

どんな言葉を返すか、すぐには浮かばなかった。

でも、胸の奥で何かが静かに“ほどけていく”のを感じた。

夜、ベランダに出て、

星々が見える空を見上げた。

目を閉じて、深く息を吸った。

そして、

ただひとことだけ、つぶやいた。

「ありがとう」

それは、過去に向けた言葉でも、

誰かに向けた言葉でもなかった。

すべての出来事が、

すべての関係が、

彼自身を、ほんとうの人生へ導いていたことに

やっと気づけた。

彼は、やっと生きはじめたのかもしれない。

失うことなく、

壊すことなく、

ただ静かに、“ほんとうの自分”に還っていく旅。

それは、

誰の上にも、

そっと訪れることのできる――

人生の奇跡だった。

あとがき ほんとうの幸せは、どこにあるのか

この物語の主人公は、

社会的に見れば、すでに「完璧な人生」を手に入れていました。

経済的な成功、家庭、地位、名声。

多くの人が追い求めるものを、すでに手の中に持っていたのです。

けれど――

そのすべてが揃っていても、心が満たされるとは限りませんでした。

彼が手にしていなかったもの。

それは「ほんとうの自分とのつながり」でした。

他人の期待や評価ではなく、

自分の内側から湧き上がる“安心感”や“やさしさ”。

過去をゆるし、人を責めず、

素直な感情で誰かと向き合えるようになること。

それが、本当の幸せのはじまりだったのです。

わたしたちは、いつのまにか

「幸せとは、何かを手に入れること」だと思い込んでしまいました。

でも、ほんとうは違います。

幸せとは、“心の在り方”にあります。

どんな人と、どんな関係性で生きているか。

誰かを愛せる心を、自分の中に持てているか。

悲しみや怒りを、正直に見つめ、やさしくほどいていけるか。

そのすべてが、

幸せの“質”を決めているのです。

もし、あなたが今、

この物語を読みながら「自分にもこんな部分がある」と感じたのなら――

それは、

あなた自身の“ほんとうの幸せ”が、もうすでに始まりかけている証です。

誰の中にも、

癒されていない声があります。

そしてそれは、静かに、でも確かに

“幸せに還る道”を照らしはじめています。

この物語が、

あなた自身の人生を見つめなおす、

静かなきっかけとなれば――

それは、わたしにとっても、何よりの幸せです。

そして、もしこの物語が心に響いたなら、

癒しを必要としている誰かに、そっと届けていただけたら嬉しいです。

あなたの大切な時間で、ここまで読んでくださって、

ありがとうございます。