眠りの檻を開くとき
愛を注ぐはずの心は、どこか凍ったまま。怒りも、嫉妬も、情熱も――閉ざして生きてきたわたし。けれど、魂の奥の扉が、いま静かに開こうとしている。
プロローグ
朝の光が、白いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
台所には、炊きたてのご飯の湯気と、味噌汁の香り。
卵焼きの甘い匂いが重なり、家の中にいつもの朝が広がっている。
女性は、おっとりとした手つきで弁当箱にご飯を詰めていた。
忙しいはずなのに、どこか上の空――
時間に追われるというより、現実に触れずに漂っているようだった。
長いあいだ、わたしは「何も感じない」ことを
当たり前のように生きてきた。
愛を注ぐはずの心は、どこか凍ったまま。
怒りも、嫉妬も、情熱も――
すべて閉ざしてしまったのは、いつからだったのだろう。
子どもたちの声が部屋の奥から響く。笑い声と泣き声と、些細な言い合い。
それらを聞きながらも、彼女の心はどこか遠くに置き去りにされていた。
けれど、魂の奥で眠っていた扉が、いま静かに開こうとしている。
これは、愛を忘れたひとりの女性が、
もう一度 “本当の自分” を取り戻していく物語。
第一章 揺らぎの始まり
その日は珍しく、夫が夕食に間に合った。
食卓には、子どもたちの大好物のハンバーグとポテトサラダ。
3人の子どもが椅子を引きずり、わいわいと席につく。
久しぶりに家族が揃った光景に、女性は小さな安堵を覚えていた。
「最近、帰りが遅いね」
湯気の向こうから、女性はさりげなく声をかけた。
「仕事だから仕方ないだろ」
夫は笑みを作ったが、その目は一瞬だけ泳いだ。
違和感はあったが、女性はそれ以上追及しなかった。
子どもたちの声が、その沈黙を埋めてくれる。
数日後。
洗濯物を取り出そうと夫のジャケットのポケットに手を入れたとき、指先が固いものに触れた。
小さな封筒。
中には、飲食店のレシートや、よく知らないサロンの領収書が束になって入っていた。
桁外れの金額。短期間で、100万円を超えていた。
「……なに、これ?」
小さくつぶやいたものの、深く考えようとはしなかった。
「仕事の付き合いかもしれないし……」
自分にそう言い聞かせ、封筒を元に戻した。
ほんのわずかな違和感は確かにあった。
けれど、彼女はそれを見なかったことにした。
――気づこうとしなければ、何も起こらない。
そう思い込むかのように。
数日後。
夜中に夫のスマホが震え、画面が一瞬光った。
「また会いたい」というメッセージ。
無意識に目に入ってしまった女性は、息を呑んだ。
続けてスクロールすると、やり取りの履歴が次々と目に飛び込んでくる。
親しげな言葉、ハートの絵文字、そして送られてきた、知らない若い女性の写真。
指先が震え、胸の奥が一気に冷えていく。
目の前の空気がねじれて、音が遠ざかるようだった。
翌日。
意を決して、女性は夫を問い詰めた。
「これ、どういうこと?」
夫は言葉を失い、しばらく黙り込んだ。
やがて、小さな声で「悪かった」とつぶやいた。
だが次の瞬間には、顔を上げて「俺だって疲れてるんだ!」と声を荒げる。
謝罪と逆ギレ。
その言葉は、重く鋭く、空気を切り裂いた。
女性は、怒りよりも驚きを強く感じていた。
「どうして……? 家族がいるのに……」
頬を涙がつたう。
嫉妬ではなかった。
ただ、裏切りと、お金を失った現実への恐れ。
そして、心の奥から湧きあがる問い――
「わたし、不思議なほど嫉妬がない。わたしは夫を愛していないのだろうか?」
その夜から、家の空気は少しずつ軋みはじめた。
子どもたちは敏感に感じ取り、8歳の子は口を閉ざし、3歳の子は小さな体で怒りをぶつけるようになった。
5歳の子は、胸の奥の不安を抱え込むように、風邪を引き、熱が上がったり、下がったりを繰り返すようになった。
女性はただ呆然と、その崩れかけた景色を見つめていた。
それが、心の檻という眠りから覚めていく最初の揺らぎだとは、まだ気づかずに――。
第二章 揺らぐ心と出会いの扉
気がつけば、家の中は冷たい雰囲気が漂うようになっていた。
会話のない食卓。
子どもたちの小さな喧嘩。
そして、夫の沈黙。
けれど、何よりも冷えていたのは、女性自身の心だった。
怒りも、悲しみも、涙のあとに残ったのは――
「どうしたらいいのか、わからない」という、かすかな空白だけだった。
感情がないわけじゃない。
けれど、それを感じようとすると、すぐに霧がかかるようにぼやけていく。
――わたし、どうしたらいいんだろう。離婚した方がいいのかな。
そんなある休日。
久しぶりに、昔からの友人と会うことになった。
子どもを夫に預け、向かったのは、近所の静かなカフェ。
温かいハーブティーを手に、女性はぽつりぽつりと今の状況を話した。
言葉を選びながら、でも途中で何度かつまってしまう。
話すことすら、うまくできなくなっている自分に気づき、
思わず、カップを見つめたまま黙り込んだ。
その沈黙を、友人がそっと破った。
「ねぇ……過去世って、知ってる?」
女性は目を瞬かせた。
「過去世……? 前世っていうやつ?」
「そうそう。魂はね、一度きりじゃなくて、何度も生まれ変わっているって考え方。
わたしたちは、今の人生だけじゃなくて、前に生きた記憶も、魂の奥に刻まれてるの」
女性は眉をひそめた。
「でも、それと今の状況に、何の関係があるの?」
友人はふっと微笑んだ。
「関係あるんだよ。
過去世での心の傷や思い込みって、今のわたしたちの行動や感情にそのまま影響してるの。
たとえば、“愛したら傷つく”って経験をしていたら、今の人生でも、無意識に心を閉ざしてしまうの」
女性の胸に、かすかな痛みが走った。
どこか、自分のことを言われているような気がした。
「……でも、それが本当なら、どうすればいいの?」
友人はまっすぐな眼差しで言った。
「癒すんだよ。
過去世の記憶を癒すと、不思議なくらい、現実も変わっていくの。
心が軽くなると、人との関係や、家族の空気まで変わっていくんだって」
女性は黙り込んだ。
そんなことが本当にあるのだろうか――。
けれど、その言葉は、妙に心に残った。
「癒すことで、現実が変わる……?」
友人は、不思議な体験を話し始めた。
「実は、半年前から《癒しの神殿 星の息吹》っていうところに通ってるの。
そこでね、過去世の癒しっていうセッションを受けてるの。
そしたらね……自分でも驚くくらい、今の彼との関係が変わったの」
どこか嬉しそうに話し始めた友人の表情は、以前よりもずっと柔らかく見えた。
「最初はね、半信半疑だったよ。
でもね……あのとき見たの。自分の過去世を」
友人が静かに語り出したのは――
古代中国、名家に生まれた娘としての人生。
極端な男尊女卑が当たり前だった時代。
「家の外には出られなくて、家の名誉のために生きるしかなかった。
結婚相手は親が決めて、見た目だけに価値があって、
心なんて、あってないようなもの。だから、愛なんてどこにもなかった……
それでも“仕えなければならない”って、ずっと思い込んでた。
愛することは、従うことだって」
目を伏せる友人の指先が、カップの縁をなぞる。
「男性って、いつもどこか怖い存在だった。
でもそれ、今のわたしの彼との関係にも全部つながってたの。
怖がってばかりで、心を開くってことが、全然できてなかった。
だから、この歳になっても、“結婚はしたくない”って思ってた」
彼女は、小さく息をついて笑った。
「でもね、その過去世を見て、癒して……
彼と、少しずつだけど、ちゃんと心がつながるようになってきたの。
“本当の愛って、こういうことなのかも”って、最近、思えるようになってきた」
それは、どこか遠い世界の話のようで――
でも、不思議と、女性の心にはすっと入ってきた。
「……ねぇ、その“神殿”って、どこにあるの?」
気づけば、女性の口からその言葉がこぼれていた。
友人はふっと微笑んで、LINEでそのホームページを共有してくれた。
そこには、星のようにきらめくロゴと、こう書かれていた。
“癒しの神殿 星の息吹”
この世界には、静かに癒されていく場所がある
― それは、あなた自身の内側に ―
女性はしばらくそれを見つめ、言葉を失っていた。
小さな揺らぎ。
それは、まだ“希望”とは呼べないかもしれない。
けれど、胸の奥で、たしかに何かが囁いていた。
――行ってみようか。
第三章 過去世の記憶 封じ込めた愛が蘇る時
友人に連れられて、初めてその扉をくぐったとき、女性の心は不思議と静かだった。
「癒しの神殿 星の息吹」
看板もない、普通の家のような外観。
でも、玄関の向こうに広がる空気は、まるで異世界のようだった。
深く、やわらかく、あたたかい――
この場に足を踏み入れた瞬間、女性はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
迎えてくれたのは、穏やかなまなざしの男性。
「どうぞ、ゆっくりお入りくださいね」
その声に導かれ、女性は奥の部屋に案内された。
そこには、30人ほどの参加者が円になって座っていた。
壁には神聖な絵や、祈りの言葉が静かに飾られている。
部屋の中央には、美しい布が敷かれ、その上にキャンドルとクリスタルがそっと置かれていた。
導き手は何も急かさず、ただ静かにこう言った。
「この過去世を癒すセッションは、ただ“思い出す”ためのものではありません。
過去世の真実を知ることが重要なのではなく、あなたの魂に残っている“痛み”や“抑圧された願い”に、やさしく気づいていく、そして、癒していくための時間です。
特に難しいことを考えなくていいですよ。
ただ、ここにいるということを、感じてみてください」
過去世の癒しのセッションが静かに始まった。
「鼻からゆっくり吸って、心の奥まで息を届けて……
口から、ゆっくりと吐いて、いらない緊張を手放します」
全員の呼吸がそろっていく。
優しいフルートの音と、心地よい香が部屋を満たす。
目を閉じた人たちの表情が、少しずつ変わっていく。
眉間のしわがゆるみ、肩が下がり、内側の静けさに沈んでいくようだった。
ふと気がつくと、セッションが終わっていた。
「わたしは……?寝てたの……?」
導き手がやさしく答えてくれた。
「はい、でも大丈夫ですよ。
普段、多くの人は心が本当に緩む体験を知りません。
ですから、心地よいヒーリングエネルギーの中で寝てしまうのは普通なんですよ」
女性は何が起きたかは分からなかったが、気分がとてもスッキリして、どこか軽くなっているような感じがした。
女性はそれから、「癒しの神殿 星の息吹」の色々なヒーリングワークに導かれるように参加するようになった。
そして、癒しの2ヶ月が過ぎた頃、
女性は再び過去世を癒すセッションの輪の中にいた。
導き手がしずかに説明している。
「鼻からゆっくり吸って、心の奥まで息を届けて……
口から、ゆっくりと吐いて、いらない緊張を手放します」
女性は目を閉じ、深く深く息を吐いた。
10分ほどして、女性の意識は、まどろみのようでいて、深く澄んだ内面に触れやすい状態になってきた。現実と夢の境の意識状態と言ったらわかりやすいだろうか。
ある瞬間、女性の内側に、ふと一枚の光景が流れ込んできた。
それは、石造りの古い修道院。
厚い壁に囲まれた沈黙の空間。
礼拝堂にはキャンドルの灯が揺れ、ひんやりとした空気が流れている。
その中に、白い修道服に身を包んだ女性がいた。
背筋をまっすぐに伸ばし、両手を組んで静かに祈るその姿には、清らかさと同時に、深い孤独がにじんでいた。
――それは、“わたし”だった。
愛してはいけない世界。
誰かを想うことは、「神への裏切り」とされた時代。
彼女は、かつてひとりの男性を愛していた。
それは、魂が求め合うようなつながりだった。
けれど、その愛を受け入れたとたん、彼女は激しく自分を責めた。
「わたしは、神に仕える者……」
そう何度も言い聞かせて、愛を封じ込めた。
それからというもの、彼女は泣かなくなった。
怒らず、笑わず、ただ祈りだけを繰り返す日々。
「清らかであること」だけが、彼女の存在価値だった。
「……本当に、それでよかったのでしょうか?」
心の中に、声にならない声がそっと届いた。
その問いかけに、胸がぎゅっと締めつけられた。
しばらくゆらゆらと心が動く感じ。
ふっと光の中に包まれ、この世のものとは思えない深い慈しみの感覚が心に入ってくる。
そしてまた、声にならない声が聞こえた。聞こえたというより、感覚で何を言っているのかが分かる。
――愛することは、罪ではないのです。
――心を開くことは、裏切りではないのです。
――無意識に蓄積された偽りの信念を見直し、真の愛に目覚めましょう。
その光に触れたとき、修道女の頬を一筋の涙が伝った。
同時に、現実の女性の目にも、静かに涙がこぼれていた。
長い間、胸の奥で凍りついていた感情が、やっと溶け出したようだった。
セッションが終わったあと、女性はしばらく床の上で静かに座っていた。
何かを話す必要もなかった。ただ、深い安心が胸に広がっていた。
帰り際、導き手がやわらかく言った。
「いま、少しだけでも心が軽くなっていたら……それがすべてです」
外に出ると、秋の空気が肌に心地よかった。
街の音は変わらないのに、自分の中の世界だけが静かに変わったように感じた。
次の日。
夫の帰宅に、女性はふいにこう声をかけた。
「おかえり……いつもありがとね」
夫は驚いたように目を見開いたあと、少し照れくさそうに笑った。
たったそれだけのやりとり。
でもその一言が、女性の中では大きな一歩だった。
心を閉ざしていた修道女が、遠い過去からいまの自分に語りかける――
「もう、愛してもいいんだよ」
第四章 過去世の記憶 ― 封じられた芸術の祈り
それは、ある週末の午後だった。
女性はいつものように、癒しの神殿《星の息吹》のセッションに参加していた。
この日は、「魂の創造性を解放するワーク」。
導き手が優しく語る。
「わたしたちの中には、生まれながらにして表現したい“何か”があります。
けれど、多くの人がそれを封じてしまった過去を持っています。
今日は、その“声を失った人生”を思い出していきましょう」
静かな音楽が流れ、アロマの香りが満ちる部屋で、女性は目を閉じた。
すでに呼吸法には慣れていた。深く、やさしく、奥へ、奥へと意識が沈んでいく。
10分ほどの静寂のあと――
ふと、光の粒がひとつ、胸の奥から浮かび上がった。
それは、まるで絵画のような断片的なビジョン。
…白い壁のアトリエ。
窓から差し込む自然光。
そこに、一人の若い女性がいた。
手には筆。
カンバスに向かいながら、どこか怯えたような目をしていた。
――あれは、わたし?
気がつけば、女性はその過去世の中に入っていた。
その時代は19世紀ヨーロッパ、女性は芸術家だった。
産業革命が都市を変え、人々の価値観は効率化や利益に飲み込まれていった時代。
彼女は、流行や商業性には背を向け、絵を描くことで心を表現していた。
けれど、周囲からはこう言われ続けていた。
「あなたの絵は意味がない」
「もっと人の役に立つことをしなさい」
「感情を描いて何になるの?」
夢中で描いた作品は、ある日、父親に破り捨てられた。
「こんなものに時間を使ってどうする。
お前は家の手伝いをしていればそれでいいんだ」
心が、音を立てて閉じた瞬間だった。
――あの日、わたしは、自分の“声”を失った。
それ以来、絵を描くことをやめた。
色を選ぶこと、感じること、表現することを完全に禁じられた。
代わりに、社会や人の期待に応える人生を強制された。
「良い娘」「役に立つ人」「感情のないわたし」――
その人生は若くして終わり、彼女は病床でひとり、かすれた声でつぶやいた。
「わたしは…生きたかった。
自分を…描いてみたかった……」
その言葉を聞いた瞬間、現実の女性の頬に、涙がすっと流れ落ちた。
あの時の“わたし”が、ずっと叫んでいたのだ。
「表現したかった」
「自由に、生きたかった」
その声が、時を越えて、いまの自分の胸に響いた。
そして、なぜ今まで自分が何を感じているのか、何を望んでいるのか分からない理由が見えた気がした。
静かな時間の中で、女性は心の奥に、そっと問いかけた。
――わたしは、今、どれだけ“わたし”を生きているだろう?
答えは出なかった。けれど、
なぜか“絵を描いてみたい”という思いが、ふわりと浮かんできた。
セッションが終わり、目を開けた女性は、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
周囲の空気は同じなのに、胸の中にだけ、新たな“余白”ができていた。
帰り道。
道端の花の色に、ふと目がとまった。
空のグラデーションが、こんなにも美しかったことに、初めて気づいた。
家に帰ると、夫が子供たちのお絵描きを手伝っていた。
女性は衝動的に、テーブルの上に転がっていたクレヨンを手に取った。
そして、無意識に紙を一枚引き出し、そっと描き始めた。
最初に浮かんできたのは、柔らかな光の玉だった。
色を重ねていくうちに、それが“魂の奥にある喜び”のように見えてきた。
「わたし……まだ描けるんだ」
小さく笑ったその瞬間、
隣で見ていた夫と目が合った。
「なんか、お前、可愛くなったな」
彼女は照れくさそうに答えた。
「えー、何それー。――なんか、嬉しい」
第五章 小さな光の始まり
「なんか、お前、可愛くなったな」
夫のその言葉は、冗談めいていた。
でも、その声の奥に、ほんの少しだけ揺れるような温度があった。
女性は、ふふっと笑いながらクレヨンを置いた。
子供たちが部屋に入ったことを確認したあと、小さな声でつぶやいた。
「……ねぇ」
「ん?」
「わたし……あなたにちゃんと気持ちを伝えたこと、なかったよね」
夫が驚いた顔をして女性の顔を見た。
「……どうした?」
女性は紙の上をそっとなぞるように、言葉を続けた。
「ずっと心を閉ざしてた。あなたに何か言われても、反応できなかった。感情が動かなくて……だから、たぶん、あなたは愛情が足りないって感じてたんだよね」
夫は何も言わず、じっと彼女を見ていた。
「あなたが浮気して、大金を使ったってわかったとき――正直、すごく驚いた。怖くなった。だけど、怒りよりも……悲しかったの。わたし、何か間違ってたんだなって」
彼女の声は震えていた。
それでも、言葉を止めなかった。
「……ごめんね。ずっと愛せてるつもりでいたけど、それは、ただ一緒に“いる”だけだったのかもしれない」
「……俺も、謝らなきゃいけない。あの時のこと、本当にごめん」
その声には、虚勢も言い訳もなかった。
ただ、静かににじむような痛みと、悔いと、ほんの少しの勇気があった。
「仕事で疲れてるとか、いろんなことに追われてるとか……それを理由にして、自分の寂しさを埋めようとしてた。ほんとはね、お前の心の奥が見えなくて、不安だったんだ」
「……わたしも同じだった。わたしの奥も、自分で見えてなかった」
二人の間に、ゆっくりと沈黙が落ちた。
でも、それはかつての「話さない沈黙」とは違っていた。
言葉よりも深く、体温のある“つながりの沈黙”だった。
子どもたちの笑い声が、奥の部屋から響いた。
その音が、なぜだか、ふたりの胸にやさしく届いた。
「……ねぇ、描いた絵、見せてくれない?」
夫のその一言に、女性は照れくさそうにうなずいた。
そして、描きかけの紙を差し出した。
そこには、柔らかな光の玉が浮かんでいた。
まるで、いまの彼女の心を映し出したような、やさしい色彩。
「なんか……すごく、いいな」
「ありがと」
その言葉に、また小さな笑みがこぼれる。
家の中の空気が、ほんの少しだけ、やわらかくなった気がした。
“すべてが一瞬で変わったわけじゃない”
けれど――
その日、彼女の心には確かに「小さな光」が灯った。
「わたしが癒されることが、この家族のためになる」
その言葉が、やさしく胸の奥に届いた。
そして、ふたりの心に、新しい物語のはじまりが、そっと息を吹き込んでいた。
あとがき
わたしたちは誰もが、
いつかの人生で、
「本当の自分」を閉じ込めてきた記憶を持っています。
表現すること。感じること。愛すること。
そのすべてを、自分に禁じてしまった過去があったのかもしれません。
でも――
いま、こうしてこの物語を読み終えたあなたの中で、
小さな“何か”が目を覚ましているはずです。
それは、あなたの魂がずっと守り続けてきた光。
まだ描いていない「ほんとうの人生」。
どうか、
その声を、そっと取り戻してあげてください。
そして、あなたの道を、あなた自身の色で、もう一度描いてください。
この星に、あなたという芸術が必要なのだから。
愛と祈りを込めて。
もしこの物語が心に響いたなら、
癒しを必要としている誰かに、そっと届けていただけたら嬉しいです。